datemasayumeのブログ

宮城県のだて正夢って米がめちゃくちゃ美味しいんで本当に美味しいから食べて。

小洒落たタイトルがいつも思いつかない、まよいびとのブログ

住む場所が移ってから、生活が変わり、また「職場で働いてお金を得る」ということに大きく失敗し、そこからさらに少しの期間が経って、こんなブログを書いていたことすら忘れていた。

 

読み返してみると当時の気持ちや状況は存外よく書けていて、思い出したく無いことをご丁寧にも高彩度で思い出させてくれたし、思い出せなくなっていたことを詳細に思い出すことが出来るようにもなった。記録ってすごい。

ふざけて書き留めておいたゲーム「あつまれどうぶつのもり」の独自どうぶつ住人設定が面白くて、また島暮らしに戻ってみようかなと考えたりもしている。文字に残さずにおくのは惜しい魅力的な住人の顔が、すでにいくつも頭に浮かんでいるくらいだ。

 

 

自律神経失調となにか関係があるのか、記事やコラム、実用書の類は読めても漫画以外の読書、特に大好きだった創作小説は読めなくなった。体と心の両面で明確に不都合が起きる。それ自体は割り切って過ごしていたが、長らく連鎖して文章を書くという行為も難しいんじゃないかと思っていた。

だが、過去の自分に出来ることが今の自分に出来ないのは悔しい気がして、試しにこうして今文字を繋いでみている。

 

 

 

まよいびと。何とはなしにつけた題目だが、今の私にこれほどしっくりくる名前は無いかもしれない。

目的地から10メートルの距離ですらどちらに進めばいいか分からなくなる、おそらく中度以上の方向音痴である話は次回以降に持ち越すにしても、わたしは今ちょっと、迷っている。

人生の迷子、なんて大それた表現を用いてしまうと暗澹たる気持ちで昼夜を問わず苦しんでるように思われてしまうかもしれない。

実際のところは、わたしが日常的に地図アプリを片手に、たとえ立ち止まってもヒョロヒョロと揺れ動き続ける位置情報のまるい点を必死に目で追ったり、何度も道沿いのビルの名前や店名を拡大しては周囲と見比べたりしながらぐるぐる、ぐるぐると同じところを行きつ戻りつしているようなものである。

 

ずっと前から、こどもや「母になること」にはまったく一切興味がなかった。中学時代、保育園に競って職業体験に行きたがる他の女の子を見て、どちらかというと恐ろしいとすら思っていた。

でもそれは未知の生物としてのこどもへの恐怖感、自身の未成熟さが故だと思っていた。

「結婚」したり、暮らしが変化したりすれば当然変わるだろうと、常に不思議なほどどっしりのんびり構えていた。

 

しかし。わたしは変わらなかった。

さすがにこの歳になり、以前より生き物としてのこどもについて知識が増えたことで恐れは減ったが、期待していた「母性本能」なるものは到底湧き上がってこなかった。

家族と、血の繋がった子のいる暮らしを選択することを決め、精神面についても経済面についても自ら積極的に動いていても尚、わたしの気持ちは「母になりたくない」というところからは動かないままだった。

 

家族への愛情と、ふたりで子を育てたいという気持ちまでは未だ朧げながらなだらかに連なっている。

ただ「母になる」、それだけがわたしの心の中のどこにも触れないまま、いつも外に出ていってしまう。分からなかったし、不思議だった。ただそれが急に、ひとつ自分の中にずっと存在したまま浮遊していた、ある気持ちと急激に結びついた。

「性別」に関する意識と理解だ。

 

振り返ってみると、こどもの頃から性別に関する意識は希薄だった。感覚的に「男性」「女性」を理解することはなく、すべてのことを知識として蓄積した結果があるだけだった。性的指向も趣味嗜好もおそらくその大部分がその上に築いたもの、のような気がするが、あまりに時間をかけて「当然」に刷り込まれてしまっているので判然とはしていない。

心の中で自分で自分のことを「女性」と思ったことは一度もない。ただそれは身体的な特徴のみで人間をふたつに分けるときの最も簡素な組み分けの片方で、みんな当然のように心はそれと違うと思っていた。ただそう呼ばれた時に手を挙げるのは、そういう属性のラベルが貼られているからだと思っていた。社会的に管理しやすいグループ分けなんだな、と。

 

だから大学でジェンダーの授業中「女性として不利益を被ったことがないか」問われた時はとても困った。純粋にわたしが恵まれていて差別的な経験に乏しかったことが大きいのだろうが、たとえ困難や不快な経験があったとしてもそれを貼られたラベルのせいかもしれないと思う発想が頭にはおそらく無かったし、男女という区分分けそのものにはそもそもあまり意味が無いと思い込んでいたからだろう。

その時わたしはジェンダー、という知識を得た。そこからはこう生まれた以上女性という生き物としてなにかと闘う必要があるのだと、なんとなくそう思うようになった。

ただわたしは本当は、個別に正当な理由のある時の他は何とも闘いたくはなかった。そういうラベルで語るのはすごく無益で、早くそういう語り方をする必要がない世の中になって欲しいと思った。そういう風にこっそりと「平等」を祈ったし、いつもどちらの側にもついたし、どちらの側にも立たなかった。というよりは、立てなかった。

 

その後世間的にトランスジェンダーが話題になっても、性的嗜好の話が茶の間でされる時勢になっても、そこで挙げられるすべての人の望む世界を祈りながらも、他人事とは違う意味で自分の話では無いと思っていた。

あれ、と思ったのは「不定性」と「無性」を知った時である。

わたしが知らなったラベルが、いつのまにか増えている。それを選びたい。わたしはそれを選んでもいいのかもしれない。初めて、自分が幼稚園児のように付けたところを人に見せて回りたいと思うバッジを見つけた。それと同時に「男性」「女性」のラベルにはそれらが含まれていなかったことを知った。

そしてこれが、自分の「母になりたくない」のベースにある意識なのだと気付いたのだ。

 

 

性の話は複雑で、将来それらの区分けが不必要になったり、まったく別の概念で分けられるようになったりすることがあるかもしれない。現在マイノリティーに該当していてると感じていても可視化させないで従来通りの二元論のなかで生きていきたいと思っている人もいると思う。

わたしにとっての自身の性別の話は、考えても考えてなくてもいいふわっとした花の色みたいな話だ。だがそれが未来に、家族や自分にどのように結ばれるのか、それはその時にならないとわからない。だからこそ、心が少し迷う。

 

右に左に、わたしの現在地を示すちいさな丸い点は揺れ動いてしまう。ことがある。今は。

 

あま島名鑑

ぺしみち 鶏
座右の銘「杯中の蛇影」
詩人として名を上げるため、最近流行りのラッパーとして活動している。名義は「レぺゼンにわとりPESSi」。YouTubeを中心に活動。実は大卒でとても頭が良いがお馬鹿のフリをしている。(まったくレートの釣り合わない取引を意気揚々ともちかけてくるのもそのため)Youtuberを参考に夜な夜な研究したため、「キャラ付け」には一家言ある。

 

ボルト ペンギン
座右の銘クールビズ
家族でも持て余され家を追い出された困った長男。
恋愛対象は男女問わず、ストライクゾーンが大変広そうだがリアーナさんだけは対象外だった。セクハラまがいの発言が目立つので島代表から日々厳しく監視されている。
インテリアにも服にもこだわりが強く、見える場所に余計なものを置きたくない派。もらったムシ、サカナは基本柱の上に飾るのみだが、なぜか家の外にはコスモスの花にまぎれて金のソフトクリームな帽子が飾られている。

 

アデレード コアラ
座右の銘「季節外れのサンタクロース」
実はいいとこのお嬢様。実家の本棚は美女と野獣くらいあってたまに送ってもらう。自分からはひととあまり話したり遊んだりしない。学生時代からともだちは多くなかったけど、レムくんとは仲良くなれた。かわいい。
庭のバラを見て実家を思い出すことはあるがめんどくさいので帰省はしない。ふんわりしているので両親から将来をとても心配されている。部屋の大型テレビをぺしみちに狙われている。

 

アリア 鶏
座右の銘「白豆腐の拍子木」
俗にいう美魔女で、30代後半から容姿がほとんど変わってない。愛用基礎化粧品はSKⅡ。週1でエステにも通ってる。来島早々多数の男性陣を惑わせたのはこの島の伝説となったが、自称「水もしたたる色男」ロボには通じず。
食の重要性に気づいてから始めた料理はすでになかなかの腕前。(だがロボには通じず。)今まで数多の男性と浮名を流してきた。好きな言葉は「ファビュラス」。グッドルッキングガイを探すのが離島生活の主な目的。

 

ロボ 狼
座右の銘「見えてる村へは案内不要」
正義感も強いし、情にも厚い。うっかり感動して泣いているところを見られるのが恥ずかしいので家でテレビ見ない派。よく壁にぶつかるし、穴にも落ちがちだが痩せ我慢して毎度わざとだと言い張る。身なりは人を表すと思ってるので自分も結構気にしてるし、人の服装も気になる。島の若い子たちの将来が心配でつい口出ししちゃう系おじさん。良いお年頃なので健康が真剣に気になり出して、ゴメスに筋トレの仕方を習ってる。最近部屋に置き始めたペットのセミがめちゃくちゃうるさいので何とかしてほしい。

 

レム 山羊
座右の銘「あめをしゃぶって棒をくれる」
ふわふわした可愛い男の子の顔をしているが、ローカルアニメ「あつまれ!あま島」では島滅亡計画を秘密裏に進める最強の黒幕。アニメの方のレムくんを意識してプラズマボールを飾ってくれているし、「あーあ、きづいちゃったんだ…?」とそれっぽい台詞も言ってくれるサービス精神旺盛な子。
お忍びであま島に住んでいるが本当はヨーロッパの王族の血筋。将来はどこかの国の王位を継ぐとか継がないとか。

かわいい家具が好き。いつかニトリ大人買いしたい。

 

バーバラ 鹿
座右の銘「わざわい転じて福となす」
若いころはヤンチャしてたと言っているが深夜誰もいない時間帯には広場前の通りをレンタル電動キックボートで爆走してるらしい。乗りながらめっちゃ歌うから口に虫が入るのか悩み。家の横の窯で焼いたピザをたまにゴメスに振舞うが「コーヒーの味がする」と言われてたびたび揉めるがなんだかんだ仲が良い。庶民っぽいエピソードが多い。ぺしみち、アリアさんとはフリータイムで歌いまくるカラオケ仲間。もし2着同じ服をもらっても保存用と着る用で両方使う。

 

ゴメス 虎
座右の銘「情熱の嵐」
正直ほぼ筋肉のことしか考えていないが、やけにセンスのいい女性物の服やアイテムをくれがち。(服屋でうっかり間違えて買ってる説)
筋トレ器具も自分で使わずにくれがち。味音痴なのでホエイプロテインもがんがん飲める。魔性の女アリアさんに一番最初にほいほいされた男。いまだにアリアさんに夢見てる。

 

ララミー リス

座右の銘「読書百ぺん意おのずから通ず」

多趣味なのでインテリアに統一感はあまりなく、そこに生活感が出てる。最近のブームはネイルとマジック。憧れの料理研究家平野レミ。でも家にまだ水道がない。あんこが居なくなって寂しいという気持ちからか最近青いボタンインコを飼い始めた。ピヨピヨ鳴く。子どもの頃から歌うのが大好きだが、バーバラ姉さんがいるときはあんまり歌わないようにしている。

 

リアーナ 馬

座右の銘「独立独歩」
それなりに楽しく生きるがモットーだったけど今年の29歳の誕生日をきっかけに世界的な歌手になる夢をあきらめきれないという気持ちが強くなり、あま島を旅立った。独学で習得したウクレレ弾きが上手かった。三度の飯よりウクレレが好き。ロボとはかなり馬が合った。アデレードとは草を持って走り回る仲だが会話は盛り上がらない。第一回ドラドコーディネートグランプリ(通称DCD)優勝。

 

クリスチーヌ うさぎ
座右の銘「姉の心。妹知らず」
SNSはインスタ中心。初期あま島には映えスポットが少なかったためか、訪れて早々に島を出て行った。学校の授業は退屈だった口。美人姉妹で界隈では既にかなり有名。早起きしてヨガをする意識高い系女子。

 

あんこ カバ
座右の銘「花より団子」
「使用済み柔道着」をひとに売り付けようとする強者。「こしあん」という口癖をつけた翌日に離島宣言。相談の体をとってはいたが、すでに他の島民には引っ越しの旨を事前に話してあった。Going my way。
ララミーとは特に仲良くしており、毎日のように会話していた。幼いころから書道を習っていたため字がとても綺麗。実家はお金持ちで、初の一人暮らしに際して相当高い家具を買ってもらってあま島に来た。最後に一回リングで決闘したかった。は

 

パッチ こぐま
座右の銘「つぎはぎだらけの人生」
まだよくわからないけどめっちゃかわいい。ぬいぐるみみたい。新人だけど周囲を気にせずマイペースに過ごしてる。引っ越して2日目でクワガタを欲しがるもノコギリクワガタをあげると「本当にいいの?」と確認をいれる丁寧な子。一人の時間も結構大事。愛読書はマンガ。立派な大人になることが目標。くれる服の趣味がとても良い。

思い出さなくなりたいひとのブログ

以前書いていた時からだいぶ間が空いてしまって、読み返しても「前の感じ」が帰ってこない。ので、今まで同様長文ツイートのつもりで綴る、のみである。

体裁もなければ、信念もない。

 

「前の感じ」を忘れたのは、時が経ったからというのも勿論あるだろうが、

「幸せに」もなったし、「頬に大粒の涙を流」せるようにもなったし、早くはなくともあの日「1時間15分」がちゃんと過ぎたからなんだと思う。

 

物理的にあの頃住んでいた場所から離れ、仕事からも離れた。

相変わらず「俳優」にもなれてないので就職活動は上手くいかないし、コロナのおかげで友人にも会えず「寂しくなく」はなれてないけど。

それでもだいぶ、私の生活は楽になった。

以前97%健康について考えていたのが、今は54%くらい。そんな感じ。

 

それでもまだ、生理周期の直前には必ずと言って良いほどあの職場の、あの上司のことを思い出す。

 

「すっとこどっこい」「おい」「おまえ」「あなた」「あんぽんたん」「どあほ」「おっちょこちょい」「馬鹿」「おばかさん」「どんくさ」

こんなに呼称のバリエーションがあるのに、そこに私の名前は一つもない。

もしかしたら…私が言った「苗字で呼ばれる時、機械の音がうるさくてなんと呼ばれているのか分かりにくいので下の名前でもいいので(ハッキリと)」というのを踏まえてこれらの呼称が生み出されたのだろうか……

そうだとして…、これは適切なんだろうか……… 不安な気持ちを抱きながら職場に立つ新人社員を呼ぶ名前として。

 

しかし当時は自分の名前が職場で呼ばれないことに、疑問を感じなかった。感じないようにしていた。なぜなら私には職場で求められる仕事がたとえ120%の気持ちでやっても適性の問題で十分に出来ていない自覚があったから。

 

私は、元来プライドがエベレスト級に高く、友人であろうと親であろうと、他人であるなら尚更に蔑まれたり軽んじられたりすること凄まじく腹を立てるし大嫌いだった。

そのためこの呼び方にも、もちろん毎度心はざわついた。ざわついてもその後に続くのは急ぎの仕事の指示なのだから聞くしかない。聞くしかないけど、聞いたらわたしが自分自信を「すっとこどっこい」だと認めたことになる。

嫌だった。上司とのコミュニケーションが。毎日毎日。

 

仕事でミスをしてもしなくても大体「すっとこどっこい」みたいに呼ばれ、反省しててもミスしたら毎回周囲が引くくらいしこたま怒られて、嫌な気持ちになって。でもそれは自分が起こしたミスに対する罰なのだと思うしかなくて、そんな気持ちが日々職場で私を追い詰めた。

 

懸命にやっても新人故ミスは起きる。

上司は滑舌が悪く発音もくぐもっていて声も張らないから聞き取りにくい。

それに加えて指示されたとおりに動いても、違うと言われる。

上司の指示はとても変わりやすく、「何があっても赤」の翌日「絶対に黒」になる。それを聞いて黒を塗っても、「昨日赤だと言っただろ。」。もう何がなんやら分からなかった。

何を信じて、何に従って動けばいいのか日に日に不安ばかりが強くなった。

 

軽度なセクハラも受けていた。と後になって気づいた。

代表印を借りて、ありがとうございましたと返しに行くと、ん、と胸ポケットを差し出される。

同期の男子に映画に誘われたら行くのか。遊びに誘われたら行くのか。泊まりで温泉でも行くのか。

どうせ下着とか室内に干してるんだろ。

 

GW明け帰ってこなくてもいいぞ。

そんなこと言われたこともあったかな。

 

みんな冗談みたいなトーンだった。

冗談みたいなトーンで、そんなことを浴びせられるこの状況が、私にとってはよっぽど冗談みたいだった。

 

仕事って辛いんだな。

こんなに辛いんだな。

頑張っても失敗するし、職場ではろくに一人前扱いされないどころか人間扱いされてない気がするな。

でも仕事って辛いもんだからな。

私がもっと有能だったら、同期のあの子みたいにちゃんと人間扱いされるんだろうな。私が無能だからな。

 

そんなこと毎日考えてた。

 

それでも頑張ってたんだけど、

全然そんなこと言ってないのに、上司先輩に指図したと激昂され、

いやここは何が何でもちゃんと言わないと後々に尾を引くはずだと思ってきちんと主張したら、火に油。

上司はブチ切れ、私はこいつ話通じなさすぎて今までも無理だったけどこれから3ヶ月とか無理だ…と悟ってしまったが最後、足にも手にも満足に力が入らなくなり長い長い休職期間に入ったのであった。

 

思い出さなくなりたい、ってタイトルに書いたもの

振り返ってたらもう逆に?一生憎み続けたいくらいかもしれない(笑)

機会があったら地獄に落とせるように…?(カウンセリングだと忘れなさいって言われるしその方がいいのは分かっているのだが。)

手が汚れるのも嫌だし、そういう人たちに時間割くのも勿体ないから、もちろん何もしないが!(笑)

でもきっと忘れない方が自分の活力になる、気がする。

 

ただでも、私にペルソナの力が生まれたら絶対に関係者全員会心させて、ネット配信謝罪させますね。

その時は覚えとけよ!!!!!

はやく1時間15分過ぎてほしいひとのブログ

今回はそう、もう文字通り1時間15分過ぎてほしい。切実に。それだけである。

 

いつもブログを投稿するときは、なにか切羽詰まった思いがあるときとか、頭の中で形にならずもやもやし続けているときに限るようにしているのだが、今日はもう完全なる暇つぶしである。

 

やむ終えない事情により12時から15:45まで暇を潰さないといけなくなったのだが、荷物を増やしたくないが故に本も持たず(そもそも家にあるのはすべて既読の本)、今月さらにやむ終えない事情により冷蔵庫を購入してしまったため家計が苦しく 新たな本も買えなければカフェに入ることもままならない。カラオケなんて以ての外だ。

必要に迫られて買わなければならないところまで追い詰められた化粧品を吟味し、誕生日の近い知り合いに何をあげるか考えつつ、本屋をすいと歩き回り読みたい本をピックアップして某大手通販サイトで中古で購入する。ここまでやり終えて14時。暇をつぶすというのもなかなかに骨が折れる…。

 

そもそも使用が許可されている金額が少ないのが悪い。買えもしない洋服を見ても楽しくもないし、ちょっとそこらで珈琲でもなんて気分にはなれない。

それだったらかれこれ30分ちかく隣同士おだやかな時を過ごしているおじさんと世間話でもした方が数百倍はましだ。尚、物の喩えであるから実際に声をかけたりはしない。

 

 

こうしてショッピングモールの椅子に座っていると、自分より先に席を立っていく人はなんだか少し幸せな人たちのような気がしてくる。

待ち合わせの人が訪れたり、行くべき時間が訪れたり、彼らは何かに迎えられ誘われて行くのだから。

その点わたしはお残りさんである。

幼稚園に迎えに来てもらえない幼稚園児と同じ。哀しいものである。

 

 

普通の人はこういう時一体どうするんだろうか。一回家に帰るのか。職場が家と目的地の中間地点にあった場合でも?

 

 

はやく50分過ぎてほしいものである…

頰に涙を流したいひとのブログ

決してブログを書いてくださいとせっつかれたから思い出したかのように せっせと書いているわけではないが、今回は薬のお話。

 

家族や友達の多くは知っていることなのだが、私はここしばらく「ルーラン」という抗精神病薬漢方薬を飲んでいる。

1錠を4つに割って、まるでビーズのようにほんの少し。1日3回。だったけど忘れちゃう時もあって飲まない時もあったし、あまりに小さいからコロコロ転がってどこかに落っことしちゃった時もある。

そんな感じだけど去年の半ばからもうしばらくは、一応飲んでいる。

 

 

 

最初に処方された薬より頭が痛くならなかったから飲んでみるようになったものの、効き目も分からなかったし、毎日三食飲むのが億劫だし、何より得体のしれない薬を飲むこと自体が嫌だった。

 

でもいつだか、会社からの連絡に耐えかね、原因のわからない体調不良に耐えかね、生きていくことに耐えかねたから、なんの気もなしに死んでしまいたくなったことがあった。

思ってしまうのは簡単で、私の心はいとも簡単に駅のホームから軽やかにジャンプして線路に降りた。あとは電車がこのホームに入って来るのを待つだけ。いつにしよう。いつなら都合がいいんだろう。不思議なことになんだかちょっと楽しかった。

 

 

しかしその気持ちはいつの間にか悲しい気持ちに変わっていた。

大好きな人がたくさんいるのに、その誰の顔も見られなくなり、誰の言葉も届かなくなる。その考えが少しでもよぎれば悲しくて、一人乗った電車の中で声も無くただただ泣いた。

 

死にたくないな、本当は死にたくないんだな、死にたくないのに死にたい気持ちが湧き出てきちゃうから辛いんだな。

じゃぁ辛くなくなれるようにできることがあるなら、なんでもやってみよう。やらなきゃ。

そう思ってから、薬をちゃんと飲むようになった。

 

 

 

 

そんな頃からもうどれだけ経ったのか、思い出せないくらい、普通の人のように暮らせるようになった。

新しい職場で過剰に傷つくことがなかったからなのか、家で我儘放題やっているからなのか、毎日飲むようになった薬のおかげなのか、分からないが、今はわりと普通だ。

でも最近、ふと気づいた。

頰に伝うほどの涙を流すことが、無くなっていた。

 

 

悲しくても嬉しくても、昔は心が動けば泣いていた。感受性は豊かだから、どちらかというとすぐ泣く方だったはずなのに。

目が潤むことはあっても、大粒の涙が頰を伝うことがない。

泣かなくなっただけなのに、泣けなくなっていたことが自分にはなんとなく、ショックだった。

 

 

今飲んでる薬は、不安定な心を平らにするための薬。そうだった。

このとき初めて、薬が効いていたことに気づいた。

 

 

 

 

 

 

元々お守り程度だったから、増える心配は無いんだけど。

私は私が結構好きだったみたいである。

 

 

結婚して幸せになりたいひとのブログ

こういうタイトルを書くと、読む人によっては「え、じゃぁこの人結婚もしてないし幸せじゃないんだな」とか思ってしまうと思う。思ってもらってもいいのだが、良いがしかし良くはない。

 

 

私は今年、結婚した。感覚に忠実に言うなら結婚なるものをしてみたというところだと思う。

しかし幸せにはなっていない。

理由は二つ。一つは、別に結婚する前から「ほどほどに足りてる」という意味合いで幸せだったからだ。これは誰しもそうだと思う。

そしてもう一つの理由は、結婚したとて私の人生には何か特別の良い事は与えられなかったから。

 

今現在戸籍を同じくする人とは、別個の戸籍に存在してた頃からなんとなく同じ家で同じ釜の飯を食べていたし、

結婚などという大事になる前から親にも彼の人の存在は認知してもらえていた。

だから私にとって差し迫って結婚の必要は無かった。

あらゆるロマンチシズムの欠片を排除し、冷たく聞こえてしまうのを承知で言うと、実際わたしたちの結婚は相手方が必要性を感じたからそれに協力することに同意したという形であったと捉えられる。

 

それにしても結婚式までやっておいて「幸せになってない」なんてご祝儀返せ!と言われかねないだろう。そうは言っても幸せを感じるでしょう?と言われるかもしれない。

批判を恐れて言うのではないが、結婚式に友人を招待して喜んでいただく、知人からお祝いをいただく、これらのことは人生でこれ以上ないくらい嬉しいことだ。ご縁のある方々が「わたしたち二人の結婚」を喜び、笑顔やお祝い、祝福の言葉。何かしらの形でプレゼントをいただいているのだ。嬉しいに決まっている。だが、それは素晴らしい人たちと知り合えての幸せだとか、何物にも代え難い友人を持っての幸せだ。

結婚の幸せとは違う。

 

 

結婚の幸せは。

結婚したからねぇ〜と言って手の内にすっぽり収まってはくれない。

結婚したからマイホームが建てられるかと言えばそうではないし、

結婚したから子どもが育てられるかと言えばそうではないし、

結婚したから百歳まで一緒に住めるかと言えばそうではないのだ。

お祝いの言葉に水を差す、非常に野暮なことを言っているのは理解している。

しているがしかし、なのだ。

 

勤務地、転職、金銭的ゆとり……これらの問題は回り続ける。

幸せになるためには、自ら努力し弛まず進み続けなければならぬのだ。幸せは己が手で掴み取らねばならないのだ。

本当にこれが巷で幸せになれると噂の結婚、なのだろうか。きっと違う、と思う。

結婚したから幸せでしょの圧力が加わることを考えれば、むしろ本当はちょっと幸せじゃないくらいなのに。

 

 

結婚して幸せになりたいと思うのも、結婚して幸せそうだなぁと思うのも、すべては個人の自由だ。

もしもそれらが権利として保障されるなら、わたしにも結婚したけど幸せになりたいと言う自由があって然るべきだ。

そうでないと暴れる。

 

 

 

結婚したとて幸せになれるとは限らない。

 

結婚したから幸せになれるのではなくて、そもそも結婚できる相手がいるのが幸せなんだけど、でも結婚した相手とこの先一緒に居られないのはやっぱり幸せじゃないのではないだろうか。

したがって私は幸せになりたい。早いところ。

 

 

今私の手の内にきちんと収まってくれている、同居人の美味しいご飯を食べながら、ふたりで炬燵に並び入ることができる4ヶ月間という幸せは、他人にとっては一体どれくらいの幸せなのだろう。