datemasayumeのブログ

宮城県のだて正夢って米がめちゃくちゃ美味しいんで本当に美味しいから食べて。

小洒落たタイトルがいつも思いつかない、まよいびとのブログ

住む場所が移ってから、生活が変わり、また「職場で働いてお金を得る」ということに大きく失敗し、そこからさらに少しの期間が経って、こんなブログを書いていたことすら忘れていた。

 

読み返してみると当時の気持ちや状況は存外よく書けていて、思い出したく無いことをご丁寧にも高彩度で思い出させてくれたし、思い出せなくなっていたことを詳細に思い出すことが出来るようにもなった。記録ってすごい。

ふざけて書き留めておいたゲーム「あつまれどうぶつのもり」の独自どうぶつ住人設定が面白くて、また島暮らしに戻ってみようかなと考えたりもしている。文字に残さずにおくのは惜しい魅力的な住人の顔が、すでにいくつも頭に浮かんでいるくらいだ。

 

 

自律神経失調となにか関係があるのか、記事やコラム、実用書の類は読めても漫画以外の読書、特に大好きだった創作小説は読めなくなった。体と心の両面で明確に不都合が起きる。それ自体は割り切って過ごしていたが、長らく連鎖して文章を書くという行為も難しいんじゃないかと思っていた。

だが、過去の自分に出来ることが今の自分に出来ないのは悔しい気がして、試しにこうして今文字を繋いでみている。

 

 

 

まよいびと。何とはなしにつけた題目だが、今の私にこれほどしっくりくる名前は無いかもしれない。

目的地から10メートルの距離ですらどちらに進めばいいか分からなくなる、おそらく中度以上の方向音痴である話は次回以降に持ち越すにしても、わたしは今ちょっと、迷っている。

人生の迷子、なんて大それた表現を用いてしまうと暗澹たる気持ちで昼夜を問わず苦しんでるように思われてしまうかもしれない。

実際のところは、わたしが日常的に地図アプリを片手に、たとえ立ち止まってもヒョロヒョロと揺れ動き続ける位置情報のまるい点を必死に目で追ったり、何度も道沿いのビルの名前や店名を拡大しては周囲と見比べたりしながらぐるぐる、ぐるぐると同じところを行きつ戻りつしているようなものである。

 

ずっと前から、こどもや「母になること」にはまったく一切興味がなかった。中学時代、保育園に競って職業体験に行きたがる他の女の子を見て、どちらかというと恐ろしいとすら思っていた。

でもそれは未知の生物としてのこどもへの恐怖感、自身の未成熟さが故だと思っていた。

「結婚」したり、暮らしが変化したりすれば当然変わるだろうと、常に不思議なほどどっしりのんびり構えていた。

 

しかし。わたしは変わらなかった。

さすがにこの歳になり、以前より生き物としてのこどもについて知識が増えたことで恐れは減ったが、期待していた「母性本能」なるものは到底湧き上がってこなかった。

家族と、血の繋がった子のいる暮らしを選択することを決め、精神面についても経済面についても自ら積極的に動いていても尚、わたしの気持ちは「母になりたくない」というところからは動かないままだった。

 

家族への愛情と、ふたりで子を育てたいという気持ちまでは未だ朧げながらなだらかに連なっている。

ただ「母になる」、それだけがわたしの心の中のどこにも触れないまま、いつも外に出ていってしまう。分からなかったし、不思議だった。ただそれが急に、ひとつ自分の中にずっと存在したまま浮遊していた、ある気持ちと急激に結びついた。

「性別」に関する意識と理解だ。

 

振り返ってみると、こどもの頃から性別に関する意識は希薄だった。感覚的に「男性」「女性」を理解することはなく、すべてのことを知識として蓄積した結果があるだけだった。性的指向も趣味嗜好もおそらくその大部分がその上に築いたもの、のような気がするが、あまりに時間をかけて「当然」に刷り込まれてしまっているので判然とはしていない。

心の中で自分で自分のことを「女性」と思ったことは一度もない。ただそれは身体的な特徴のみで人間をふたつに分けるときの最も簡素な組み分けの片方で、みんな当然のように心はそれと違うと思っていた。ただそう呼ばれた時に手を挙げるのは、そういう属性のラベルが貼られているからだと思っていた。社会的に管理しやすいグループ分けなんだな、と。

 

だから大学でジェンダーの授業中「女性として不利益を被ったことがないか」問われた時はとても困った。純粋にわたしが恵まれていて差別的な経験に乏しかったことが大きいのだろうが、たとえ困難や不快な経験があったとしてもそれを貼られたラベルのせいかもしれないと思う発想が頭にはおそらく無かったし、男女という区分分けそのものにはそもそもあまり意味が無いと思い込んでいたからだろう。

その時わたしはジェンダー、という知識を得た。そこからはこう生まれた以上女性という生き物としてなにかと闘う必要があるのだと、なんとなくそう思うようになった。

ただわたしは本当は、個別に正当な理由のある時の他は何とも闘いたくはなかった。そういうラベルで語るのはすごく無益で、早くそういう語り方をする必要がない世の中になって欲しいと思った。そういう風にこっそりと「平等」を祈ったし、いつもどちらの側にもついたし、どちらの側にも立たなかった。というよりは、立てなかった。

 

その後世間的にトランスジェンダーが話題になっても、性的嗜好の話が茶の間でされる時勢になっても、そこで挙げられるすべての人の望む世界を祈りながらも、他人事とは違う意味で自分の話では無いと思っていた。

あれ、と思ったのは「不定性」と「無性」を知った時である。

わたしが知らなったラベルが、いつのまにか増えている。それを選びたい。わたしはそれを選んでもいいのかもしれない。初めて、自分が幼稚園児のように付けたところを人に見せて回りたいと思うバッジを見つけた。それと同時に「男性」「女性」のラベルにはそれらが含まれていなかったことを知った。

そしてこれが、自分の「母になりたくない」のベースにある意識なのだと気付いたのだ。

 

 

性の話は複雑で、将来それらの区分けが不必要になったり、まったく別の概念で分けられるようになったりすることがあるかもしれない。現在マイノリティーに該当していてると感じていても可視化させないで従来通りの二元論のなかで生きていきたいと思っている人もいると思う。

わたしにとっての自身の性別の話は、考えても考えてなくてもいいふわっとした花の色みたいな話だ。だがそれが未来に、家族や自分にどのように結ばれるのか、それはその時にならないとわからない。だからこそ、心が少し迷う。

 

右に左に、わたしの現在地を示すちいさな丸い点は揺れ動いてしまう。ことがある。今は。